池袋暴走事故初公判

2020年10月15日 · 未分類

2020年10月8日、池袋暴走事故初公判が東京地裁で始まり、飯塚被告は車両を暴走させた原因について、ブレーキとアクセルの踏み間違えとする捜査側主張に対し、自動車の何らかのトラブルによる暴走であるとして起訴事実を否認した。ご遺族の気持ちや検察官提出の証拠に基づいて考えると、飯塚被告の否認は多くの国民の理解を得られていないようである。
当職はご遺族らとともに現場を訪れ、実際に現場の道路をプリウスで運転してみて飯塚被告が異常な加速で事故が発生させていることは間違いがないと確信している。

このコラムでは初公判で飯塚被告の否認が、反省の度合いを示すバロメーターとすることについて疑問を述べる。
飯塚被告の本心を知るすべが誰にもない。本人のみが知っているのだろう。弁護士の介在による否認という説もメディアは流れている。
当職の推定でも、おそらくは高い確率で飯塚被告はアクセルペダルとブレーキペダルの踏み間違えをしていると考えている。
しかし、当職がそのように考える客観的証拠はない。単に30年以上自動車を運転してきた経験に基づき、現場の道路を走行してみた結果である。

仮に本当は飯塚被告がアクセルとブレーキの踏み間違えをしたかもしれないのに、それでも飯塚被告が本心から踏み間違えをした覚えはない、と記憶していた場合、私たち部外者は飯塚被告にどのようなことを望むのでしょうか?
警察が捜査した結果を基本とする検察官提出の証拠があるのだから、踏み間違えをした記憶がなくても、それは記憶違いであり、ご遺族の気持ちや結果の重大性を鑑みれば、飯塚被告は否認すべきではない、ということになるのでしょうか?

これは警察や検察官が作成した捜査書類が絶対に正しいということを前提にしているから生まれる発想である。。
しかし、当社は日本全国の加害者側からも被害者側からも交通事故調査の依頼を受けているが、加害者側であれ被害者側であれ多くの事件事故当事者は、警察や検察の捜査書類を殆ど全くと言っていいほど信用していない。
事件事故当事者の中には、警察は捜査的に無能な集団であると言い切る人さえいる。この警察作成書類を何の疑問も持たずに受け取る検察官には、裁判の有無(起訴、不起訴)を決める権限を持たせること自体が不適切であるという主張もよく聞く。

或いは目撃証人さえいれば、自分たちは裁判で救われたのに、という事故当事者も多く見ている。
反対に目撃証人があやふやで的を射ぬ証言をしているのに、何の証拠もなくただ「見た人がいる」という証言のみで裁判が進められていることを直接経験した当事者もたくさんいることも事実である。

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捜査結果について、本心から捜査結果を信用していない者にとっては被害者側であれ、加害者側であれ素直に信用して受け入れることができないのである。
その理由は、捜査の未熟性のみならず、捜査機関によるデータの捏造、自動車会社によるデータの捏造など事件処理の根幹を脅かす事件が実際に発生していることも要因になっていると思う。

当社は、今回の捜査結果が被害者側に有利に働くからその時は、捜査結果を信用しましょう、とか、今回の捜査結果で不利に働く部分は信用しないことにしましょうなどと、人の生命身体財産に関わる事件事故の証拠の信用性を当事者の立場上の都合で変えてはいけないと考えている。
現実的には、民事裁判、刑事裁判とも都合の悪い証拠は双方が出さないを原則として進められているから、当社と依頼人との間で意見の対立が生じる場合もあるのだが。

裁判の進行については法律家に任せるとして、当社は、提出された証拠について全ての事件事故当事者が真に内容を納得することから加害者の反省も始まるし、被害者の救済も始まると考えている。

その上で飯塚被告が検察官提出にかかる証拠についてどう感じて、否認しているのかを考えたい。

実は、この点について証拠の保全措置に関する制度が確立していないところに問題がある。
先日までメディアを賑わせていた元TOKIOの山口被告の飲酒運転事件、飲酒検知結果は0.7である。
飲酒検知結果は、重要な証拠である。
このため、警察官は呼気の採取から飲酒検知の経過、結果の確認記録、封印署名までの一連の過程を全て被疑者本人の面前で行っている。
その証拠保全措置が、任意の呼気検査を確実なものにしており、後日、被疑者が0.7も出ていなかったという否認をさせない措置を講じている。

大型トラックのタコグラフチャートを実際の運転席から抜き取る時にも、必ず運転手等の立会の下で時間等を確認し写真撮影しながら抜き取る。
覚せい剤検査も、排尿時から署名封印までの写真撮影を行い、他人の尿だという否認をさせない証拠保全措置を講じている。(それでも科捜研に尿が移動した後の経過は被疑者が知ることができないことであるが。)

しかし自動車事故でEDRのデータが重要なウエイトを占めることが想定される場合でも、捜査機関は被疑者不在のままデータの収集やデータをメーカーに移送し、解析結果をまって捜査側としてメーカーの回答を被疑者(被告)などの事件事故当事者に示すやり方が一般的である。

だから事件事故当事者が捜査側に解析データの信用性を聞いても、捜査側はメーカーが言っているので間違いない、としか回答のしようがない。
事件事故当事者が直接メーカーに問い合わせても、メーカー側は問い合わせに対応してくれない。
これでは捜査の経過やデータ内容に不信感を持った被疑者(被告)が、証拠に対して、或いは捜査に対して真に納得することができない。

捜査結果を信用しろ、メーカーの回答を信用しろというのは第三者であるから言えるのであり、事件事故当事者(特に否認や捜査結果に疑問を抱いている当事者)は、それを受け入れられないものである。

やはり事件を解明する重要な部分の証拠の解析は、終始、事件事故の当事者を立ち合わせて、解析の経過を丁寧に説明しながら結論を出す制度を考える時期にきていると思う。

メディアに登場する多くのコメンテーターやYouTubeの中には、もし飯塚被告が検察官の証拠を信用できないのでれば、否認する根拠理由を自ら証明すべきだとする意見もある。
これは最もらしい正義の意見のように見えるが、極めて無責任な意見で現実的ではない。
現制度下では、被疑者(被告)であれ被害者であれ、事件事故当事者が自らの証拠を収集し、収集したデータを解析して証明の結論を出すことはできない。
そもそも重要な証拠物は捜査側に押収されており、事件事故当事者が自由に見て触れることができない。

仮に飯塚被告に事故を起こした事故車そのものを預けたところで、車の正常、異常を解析することなどできない。
被害者やご遺族にしても、事故車を渡されてもお手上げである。
やはり事故車の解析にはメーカーの資機材と知識に頼らざるを得ない。
だからこそ、車の解析結果が事件の真相究明に大きな影響を及ぼすならば、その解析過程には捜査側と捜査側が選任した立会人のみならず、被疑者(被告)側、被害者側の両当事者を参加させる必要があると思う。
特に過失犯の否認事件では、防犯カメラ映像や自動車のEDRデータなど客観的データの解析過程も含めて、当事者に対し体験記憶や認識に誤りであることを丁寧に説明する義務は捜査側にあると思う。

制度的に被告が完全否認を継続したままでも有罪判決となる。
当職が扱った否認事件でも、裁判官は「あなたは事件を否認していますが、当裁判所の判断は有罪です。」と述べ事件が終結している。
被害者遺族にとって刑事裁判で被告が否認したままでも裁判上は有罪になった方が、判然としない証拠で無罪判決になるよりは当然いい。
しかしそれでは、被害者遺族が求める心の中からの反省と適正な処罰、被害者の適正な救済は得られないと思う。
被告にしても裁判制度上、有罪とされたから仕方ないが、今でも自分に過失はないと確信している、と言い聞かせ刑期が過ぎるのを待つだけとなる。

結局、証拠は誰のものなのか、というこれまでに多くのご遺族が訴えてきた部分の制度化の問題である。
例え公的機関が作成した書面と言えども、秘密裏にまとめられた書面に信用性が得られるほど、現在の捜査機関が作成、提出している書面は加害者にとっても被害者にとっても信用性は高くない。

重要な証拠は、加害者にも被害者にも有利不利に作用する場合がある。
しかしそれが証拠だと当社は考えている。

連日、池袋暴走事故に関する記事を見ていると、事故防止の必要性は当然ながら証拠保全の在り方の制度化や証拠の共有性議論は欠かせないと思いながら、事件の自認、否認と世論の評価を感じている。

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