京都亀岡市の交通事故~無免許の運転技能

2012年06月04日 · 未分類

遺族の思いはと裏腹に、本件については自動車運転過失致死傷罪で捜査が進み送致されています。罪刑法定主義の立場で危険運転致死傷罪の構成要件を厳密に解釈した結果だと思います。ここでは危険運転致死傷罪の態様の一つである「進行を制御する技能を有しない走行」と無免許運転(一度も免許を取得したことがない、全くの無免許を想定)の関係について考えてみたいと思います。「進行を制御する技能」という言葉が難しく、全くの無免許の者が交通事故を起こすことなく常習的に無免許運転を繰り返したり、運転開始から何時間も事故を起こさず道路を曲がったり、信号で停止したりすると、一応は一定の運転技能を有している、と判断できることになってしまうのです。いわゆる自動車の三要素と言われている「走る」「曲がる」「止まる」の繰り返しができていると認められ運転技能を有しているという解釈なのかもしれません。
しかしそれでは運転免許制度の意味がありません。そもそも自動車の運転という行為は、一般人が自由勝手気ままに行うと他人に対して大変危険を生じさせることとなるため、一般には禁止して、運転免許試験に合格した一定の者に限って禁止を解除し適法に運転させるもので、行政法上の許可が運転免許の意義だと思います。そのため運転免許の欠格事由、運転免許の拒否保留、受験資格を定めた上で、運転免許試験を実施しています。この運転免許試験は運転免許証を取得したことがあるみなさんならお分かりのとおり、①自動車の運転に必要な適正、②自動車の運転に必要な技能(場内試験・路上試験)、③自動車の運転について必要な知識の各試験、検査があり、すべて一定の基準を満たして初めて運転免許試験合格となるものです。さらに免許証が交付される場合でも道路における危険を防止したり、その他の安全を図るために必要がある場合には身体の状態や技能に応じて運転車両を限定するなどの条件を付して交付されているものです。このような運転免許制度の意義、目的に照らすと京都亀岡市の死傷事故被疑少年のように、事故を起こさず長時間運転行為をしていた、無免許であっても常習的な運転行為が確認された、という場合であっても、それは単に、「走る」「曲がる」「止まる」という行為の繰り返しができたという技能であって、他者(車)の関わりの中では運転適性も運転に必要な知識についても総合的に判断すれば安全に自動車の進行を制御する技能は有していなかった、と言うべきではないかと思います。安易に自動車の運転ができるものと軽信して常習的に無免許運転を繰り返せば、少なくても道路における危険とその他交通の正常な安全は著しく害されるのは当然だと思います。
京都亀岡市の交通事故遺族の皆様、お体に気お付けて頑張ってください。

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